入門編①経済主体と経済学

 入門編①~⑩までは、マクロ経済の総論です。国家経済の必須条件である歳出超過について、全般的な解説になります。よろしくお願いいたします。

 ミクロ経済は経済主体が、生産者・消費者等の「市民」で、かつ、ミクロ経済学は「市民向け」なので整合します。すなわち、ミクロ経済とミクロ経済学は近似します。
 ところが、マクロ経済は経済主体が、「国」ですが、マクロ経済学は「市民向け」になっています。ここが問題なのです。マクロ経済とマクロ経済学は乖離しています。
 そこで、「国(官僚・公益法人・独立行政法人等)向け」のマクロ経済論を、私は「マクロ経済の現実論」と呼んでいます。できる限り「マクロ経済」と「マクロ経済の現実論」は近似するように考察します。

 なお、途中から「市民経済論」「国家経済論」という概念を使用します。
 「市民経済論」とは、収入から費用を控除した金額が利益であり、利益最大化で、商品・製品・サービスを購入することを目的とする考え方です。
 「国家経済論」とは、一般に 国家の合理的な経済体制です。

 また、「マクロ経済の現実論」とは、歳入から歳出を控除した金額がマイナスの歳出超過で、収入がない中で支出を前提とした開発を行い(公共財供給)、後述する表の事情・裏の事情により、利益活動を行わない、市民の経済活動を円滑化することを目的とする考え方です。

 さらに、私の提唱する国家経済論を「マクロ経済の現実論」と統一し、「マクロ経済論」という用語は使用しないものとしました。ご注意ください。

 ミクロ経済とマクロ経済を比較対象としますと、現実のミクロ経済は、市民感覚でお金持ちになって豊かな生活を送ることを目的とします。すなわち、ミクロ経済学の考え方そのものです。
 しかしながら、マクロ経済は、国民所得を増加させてお金持ちになると考えるのがマクロ経済学の本質ですが、現実のマクロ経済は、マクロ経済学とは異なり、物々交換経済での国家の豊かさと同様、多種多様の商品・製品・サービスの質・量の最大化を目的とします。

 従いまして、国家経済論ではお金がもったいないという概念がそもそもないのです。国内の資金流通のための、あたかも潤滑油の機能を果たすための、資金支出が行われます。
 国家全体の産業構造が高度化すれば、それだけ豊かになるのです。ここでの産業構造の高度化というのは、付加価値のより高い産業ということで、第3次産業ということではございません。

 なお、全体主義経済論とかっこ書きで呼称したのは、ナチス等のファシズム又はスターリン体制を意識した強権体制である「全体主義」を表現したものではありません。
 あくまでも、市場経済を前提としつつも、国家全体の産業構造の高度化(より付加価値の高い産業を重視)を最高の目標とする体制とご理解ください。

 国家経済論は、究極的には二元論に集約されます。収益から費用を控除した利益の最大化である市民経済論的思考と、物々交換経済同様の商品・製品・サービスの質・量の最大化を目指す国家経済論的思考があります。
 従いまして、国家の収支が、何円赤字かという思考が市民経済論的思考であり、どのような公共事業が充実しているか等の視点で、産業の充実度がどれだけかという思考が国家経済論的思考です。

 ここで、具体例を交えて最大の留意点を申し上げます。私の提唱するマクロ経済の現実論(国家経済論)は、一般の市民の家計・民間の事業者が直面するような予算制約での資金のやり繰りとは、本質的に異なるということです。
 ざっくり申しますと、国会議員の選挙が議員の解散で行われるときに、選挙のサービスに5億円が支出されるというケースを想定します。この場合の国家が、あたかも民間家計や、民間の事業者と同質なものであれば、5億円貧乏になります。しかし、この場合の国家は、公共財全般の価格を下げる等により、歳出総額は一定で、円の価値が高まるデフレ等への誘導も可能です。
 誤解を招く原因の一つが、「財源がいくら足りない。」という表現ですね。
 実際の国家経済の運営感覚は、①総額での歳出超過額の調整と②公共事業である各産業の最大限の活用の2点に凝縮されます。

 簡単な表現で表しますと、民間経済が1年度に、100兆円の黒字であれば、国家経済は100兆円の財政赤字です。常に国家経済は赤字、民間経済は黒字です。
 民間経済は営利活動、国家経済は赤字で公共財開発です。
 これを前提に考察します。
 公共財は常に最高の技術を駆使して提供します。「お金がもったいない。」という表現は、民間経済に関する表現であり、国家経済では妥当しません。国家経済の感覚は、「適正な歳出額の調整。」です。

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