核兵器時代の戦争論

 第二次世界大戦でのアメリカの核兵器投下には、賛否両論がございます。
 ノーベル賞の創始者アルフレッド・ノーベルは破壊力の大きな、いわゆる現代における核兵器が開発されれば、戦争は無くなるという発想がありました。
 第二次世界大戦後の20世紀後半の先進国の核実験から推察すると、地球上の生物を全滅することが可能な核兵器を人類は開発したと考えることが自然です。
 仮にそうした核兵器を発射すると、生物は全滅し、47億年前の地球と同様、生物がいない地球になってしまいます。

 人類が、合理的な意思決定を行うと仮定すると、一度47億年前の地球に戻って47億年間歴史を再度やり直すことのような愚かなことは、しないということが自然な考えとして成り立ちます。

 ここからは、大きな推論です。皆様ご自身の考えでご検証ください。
 1980年代の米ソの対立から、緊張状態が極限になって、その後米ソ首脳会談で、緊張緩和します。
 当初の核兵器の破壊割合は私の推論では、アメリカ50%・旧ソ連50%・中国25%・イギリス25%・フランス25%です。
 最悪でも、アメリカ・旧ソ連両者が発射しなければ、生物は存続します。
 ここで、社会主義経済(計画経済)が、一定の限界に達します。これが前述の緊張状態が極限及びその後の緊張緩和です。
 この時中国を破壊割合50%に増大させて、アメリカ・旧ソ連・中国の三つ巴の破壊体制にした後、社会主義経済(計画経済)を修正して、資本主義経済(市場経済)に移行することで、国家を立て直すと同時に、旧ソ連・中国の核兵器は廃絶されます(私の推論)。
 その後1990年代にフランスが廃絶、2000年ゼロ十年代にイギリスが廃絶、2010年代にアメリカが廃絶されます(私の推論)。

 現在の核兵器発射の発言は、ただ単に牽制する手段としての、いわゆる脅しとしてしか機能していません。
 現在自民党を中心として、憲法改正及び戦争の脅しができる法制度というのは、真っ向から時代に逆行している考え方です。
 現在の日本国憲法は、アメリカに押しつけられた日本人にとって受け身の憲法だと言われます。
 しかし、核兵器の破壊力を考慮すると、第9条戦争放棄の規程は、制定当時から将来の状況を見据えた先見性を感じます。

 自民党を中心とした勢力は、こうした立場ではございませんが、イラク戦争での掃海艇派遣は、憲法解釈でのいわゆる「武力行使」ではなく、単なる後方支援だと言われます。
 なぜ、解釈によって、戦争参加である「武力行使」ではないと、通常の意味を曲げるかというと、アメリカがリーダーシップの時代は、植民地は、自国の権利を守るために、独立戦争を行い、独立国家を樹立することが、国家の一般的な理想でしたが、次の時代は戦争によって権利を主張するのではなく、経済的豊かさで、すなわち、日本がリーダーシップをとるという建付けを一貫して行うということです。
 憲法改正は、どんなに自民党が求めても、不合理であって戦争できる国家にはなりません。
 今後日本が参加する戦争での後方支援というものは、すべて憲法第9条に抵触する「武力行使」ではないと解釈され続けます。

 ウクライナ・ロシア戦争、中東戦争が現在も継続しておりますが、現代の戦争は、私は「制限戦争」と称しています。
 破壊力の小さい武器だけで、あたかもスポーツのようにルールに従い、小競り合いするだけの誰も勝者になれない不毛な戦いだからです。
 いずれは、戦争が禁止されなければ

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